見返りを求めぬ愛と献身から生まれる心の花が咲く花さき山。
花のひとつひとつが全て、他者を想う優しい心から生まれた光景がどれほど尊く感動的か……幻想的かつ迷いのない線の切り絵が見事に表現しています。
まさに、作者両氏、渾身の一作!
この素晴らしい絵本に込められたテーマ、自己犠牲とは何か……一緒に考えてみませんか?
簡単なあらすじ
山菜取りに出掛けたあやは、見た事もない花が咲き乱れる山へ迷い込み、やまんばと出会います。
この世のものとは思えぬ美しい光景に見惚れるあやへ、語り掛けるやまんば。
そこに咲いている赤い花、それはお前が咲かせた花だ、あや。
この花が咲く山、花さき山の秘密をおらが教えてやろう。
絵本の紹介
人か咲かせる心の花は……
自分の事よりも人の事を想い、辛くても懸命に耐える、その優しさと健気さが、花さき山の花となって咲いていく……花さき山に広がる一面の花畑は、全て人々の優しい心から咲いた花。
あやの花も、貧しい家族を思って、祭りの晴れ着を着たい気持ちを我慢し、自分はいいから妹には晴れ着を買ってあげるようにと譲る、思いやりと辛抱から生まれた花。
やまんばがあやに教えてくれた花さき山の秘密、その美しい花畑がどこまでも続くページをめくる時には、私は思わず心が震えます。
人の心は複雑で、底の見えない海のように深くて広い。
愚かで醜くて身勝手極まりない一面もあるけれど、これだけ多くの心の花を咲かせる一面だってあるのですよね
ひとつひとつの花に込められたであろう、愛と献身に思いを馳せる時、心を打たれずにはいられません。
もっと沢山、沢山、花が咲く世の中になったら、今よりももっと平和で皆が幸福な世界になるのかもしれない……そんな思いも込み上げてきます。
絵も、話も、なんて美しい絵本なんでしょう!
私はこの絵本が大好き!!
読んでいると心が洗われるような心持ち、沢山の花が咲く未来への希望が湧きあがってきます。
これはぜひ、我が家のちびっ子兄弟の心にも、心の花がどんなに綺麗なのか見せてあげたいな、と読み聞かせ。
けれど、読めば読むほど、ただ「美しい」と感傷に浸っていればよい絵本、でもない気がしてきたんですよね……。
自己犠牲を考える
斎藤隆介さんと滝平二郎さんがペアを組んだ絵本は、この『花さき山』のように、我慢を伴う思いやり、つまり優しさから生じる自己犠牲がテーマになっているものがいくつかあります。
あやのように個人に対するレベルのものもあれば、『八郎』や『三コ』のように集団に対するレベルのものもありますが、共通するのは、この自己犠牲という言葉!
これが取り扱いがすごく難しくて、一筋縄ではいかないんですけど、ちょっと考えてみますね。
他者の為に己を犠牲にして尽くす、自己犠牲。
個人主義の西洋諸国から見て、かつては日本人の美徳としてカウントされていたこの言葉。
映画でも「ここは俺が食い止めるから、お前は先に行けーっ!」的な展開は、今でもお約束、ストーリーとして盛り上がるポイントじゃないですか?
それがあやのように日常のささやかなものであっても、『八郎』や『三コ』のように命を懸けたものであっても、献身的な行動は、やはり美しく目に映るものです。
でも、その美しさは諸刃の剣。
人は自己犠牲の美に酔いやすく、ことさら美化しがち。
そして、優しさから生まれるはずの自己犠牲、のはずが、誰かの犠牲の元に成り立つ幸福を享受するのが当然になってしまうと、今度はそれを人に強制するようになる危険性があるんですよね。
他者に強いられる自己犠牲がどれほど酷く辛く苦しいものであるか……人柱などの昔の話だけではなく、戦争でも、ブラック企業でも、日本人はピンからキリまで経験済。
自己犠牲の度合いが大きかろうが小さかろうが、その危険性がある以上、決して安易に称賛して良いものではないんですよ。
ん~~、なかなかに難しいテーマ!
あやの場合は他者から強制されたものではありませんし、ただの思いやりに大げさな、いちいち自己犠牲なんて言っていたらキリがない、とお思いかもしれませんね。
確かに、思いやりは相手の心に寄り添う事であって、自己犠牲は必須条件ではありません。
でも、思い出してください、あやの妹への思いやりは、あやの我慢が前提。
あやだってまだ子供、それでも自分より幼い妹を思いやり、自分の思いをそっと押し殺す……それはどんなに小さくささやかだとしても、立派な自己犠牲ですよ。
それにその我慢も家の貧しさが原因で、まだ子供のあや自身の責任ではありません。
その精一杯の心も知らず「当たり前」と享受するも、むやみやたらに賛美するのも、私は何か違う気がするのです。
何をもって、あやの心に報いる事ができるんでしょうか……。
更に、自己犠牲は個人の幸せと並び立つのか、という問いも頭に浮かんできます。
そもそも、今は個人主義の時代ですから、個人の幸福を求めても良いという認識も広まってます。
日本人の精神構造は日本の近代化と共に変容し、敗戦を機に大きく方向転換していったと言われていますが、幸福の認識も集団より個を重視したものに変化している……。
その認識下で、個人の幸福と他者の幸福の為の自己犠牲、両立できるのか、と考えると、結構難しくないですか?
恐らく約60年前の出版当時ですら忘れられかけて、民話絵本の形態をとらなければ受け入れられなかった自己犠牲の精神が、「個」の追求が進みまくった現代の子供達にどこまで真の意味で通じるのか……。
道徳的な説教臭さの指摘を以前見かけた事があるのですが、それも読み手側が「個」の幸福を追求する事に慣れているから生じる齟齬のせいではないか、と思うのです。
作者の想いは……?
しかし、戦争という自己犠牲の最たる時代を生き、戦前と戦後の両方を見てこられた作者のお2人は、自己犠牲の危うさも、時代との齟齬もとっくにご承知だったはず。
それでも、自己犠牲を主軸に据えているのには、どんなお考えがあったのでしょう?
私は、そのヒントを最後のあやの微笑みだと考えてます。
あやは、自分の我慢が誰にも直接感謝されなくても、花さき山に自分の花が咲く事で、報われていると感じたんじゃないかな?
誰かが全てを知っていてくれる、気持ちに寄り添っていてくれる、というだけで、人の心は慰めを得られます。
あやの場合は人ではなく花という形ですが、その自己犠牲の全ての結実である花が咲く事を知って、自分に寄り添う存在がある、と少しでも報われたんじゃないでしょうか。
そして、沢山の花々、知っている人知らない人も含めた多くの人々がひっそりと咲かせた心の花の数々を目にして、自分がこの世界でどれほど多くの人々の優しさに囲まれて生きているか、気づいたんじゃないかな?
あやの自己犠牲が誰かに幸せをもたらすように、誰かの自己犠牲もあやに幸せをもたらす……陳腐な表現ですが、人は1人で生きているのではないのですよね。
他者から強制されるのではなく、自分自身の真心から生まれた自己犠牲と思いやりが、巡り巡って人の輪を形作っている事。
「個」を追求して得られる幸福もあれば、「個」だけでは得られない、人の輪の中で得られる幸福もある事。
個人の時代に忘れられかけているこれらを忘れないでほしい、知っておいてほしい、と現代の子供達へ伝えようとして選ばれたのが、花さき山を巡るテーマ「自己犠牲」なのではないでしょうか。
作者のお2人は、自己犠牲の危うさも時代との齟齬も超える、人間の真心と優しさを信じていたのではないのかな……、と私は考えるのですが、皆様はどうお考えになりますか?
あやの優しさへ気づかぬ姿への違和感
なお、この絵本で、引っかかるとしたら、譲られた側の描き方、ですね。
双子の赤ん坊の兄が、「自分は兄だから」と、生まれた時間がほぼ変わらない弟へ、母の胸を譲り、じっと我慢して涙を堪えている姿の健気さよ!
その健気さが花さき山に美しい花を咲かせ、涙がつゆとなる……のですが、その小さな花のつぼみを愛おしむ気持ちと当時に、両方の胸を我が物顔で占有している弟、それを許している母の姿には、違和感が込み上げます。
私も1人の母親ですから、もし自分がこの双子の母親だったら、我が子にあんな涙を流させたくない、という思いがフツフツ。
それに、私は「お兄ちゃんなんだから」、「~だから」という言葉が嫌いなんですよ!
自分自身にはどうしようもない生まれつきの事で、制限を掛けたり掛けられたりする理不尽さ……。
おっかあ、そこは双子2人共抱きしめてあげてよ、あなたにはそれができるでしょ!
弟もおっかあを独り占めしていないで、一緒に抱っこしてもらおうよ!
と叫びたくなります。
主人公のあやの場合も、妹からの感謝は描かれません。
妹はまだ幼いから、あやの心遣いを理解するのが無理としても、正座して妹の晴れ着姿を見つめるあやに、あやの母は少しでも心遣いを示したのかな……。
貧しさゆえに娘に我慢を強いている、その親としての苦しさ不甲斐なさを娘に少しでも詫びたのかな……。
絵本には直接あやの母の心情が描かれていませんが、どうにもその点が読み取れず、もやもや。
どちらの母も、母としての心情がいまひとつ自然に思えなくて……スッキリしないー!
でも、譲られる側は、往々にして自分に与えられた優しさに気づかぬものなんですよね。
ずっと後になって気づく事もあれば、そのまま気づかない事もある訳で……。
きっと私自身にも、この弟や妹や母達と同じように、誰かに気付かぬうちに涙を堪えさせたり、我慢させたり、譲らせたりしている事があるはず。
そう思うと、この引っかかりも、己を省みるきっかけになりますね。
人の優しさに寄りかからず、心のアンテナを張り巡らして気づいていけるようになりたいなあ。
我が家の読み聞かせ
我が家の長男、7歳過ぎた頃から、この絵本を気にするようになりました。
長男「花さき山には僕の花もさいてるの?」
私 「そうね、きっとお山に咲いてると思うよ、あやは赤い花だったけど、何色の花が咲いているだろうね?」
長男「じゃあ、ぼくの花は青い花にする。それで、いっぱい優しいことをして、青い花をいっぱい咲かせるんだ!」
この決意も明日になれば忘れているかなー、と最初は聞き流していたのですが、読み聞かせをする度に同じようなセリフを披露。
おやおや、結構心の中に残っているのかも、と思っていたら、日中も突然「今、ぼくの花、咲いているかなあ?」と聞いてくる事が増えました。
おやつのクッキー最後の1枚を弟に譲ってあげたり、図書館で借りたかった本の順番を他の子に譲ってあげたり……自分なりの小さな親切をするようになったんですよ。
花が咲いているかを聞いてくる辺り、まだまだ子供ですが、彼なりに成長していて、その成長には『花さき山』の影響もほんのちょっぴりだけあるのかも?
先ほどは幾つかの気になる点を挙げていきましたが、それでもやっぱり、思いやりを育てるのに良い絵本であるのも、間違いはないようです。
この絵本を読み聞かせする度、私はかつて目にした震災を思い返します。
綺麗事だけでは済まなかった苦しい現実もありましたが、分け合い譲り合う姿が沢山あったのも事実。
あの時、花さき山にはどれだけ沢山の花が咲いたのかな……感謝の思いを忘れず、今自分が暮らす日常のささやかな助け合いや思いやりを大切にしていかなきゃ!
長男ではありませんが、私もこの絵本を読むと、自分の花を咲かせたい気持ちになりますよ。
まとめ
自己犠牲とは、とこれだけ長々と書きましたが、この文章を書いた後に、改めて斎藤隆介さんのあとがきに拝見しました所、この絵本に対するお考えがばっちり書いてありました。
あらら、思考へ影響を受けないようにとページを飛ばしていましたが、最初からこれを読めば良かったかも。
私の考え、当たらずとも遠からず、かな~、どうでしょうね?
皆様、あとがきも読むのをどうぞお忘れなく。
花さき山の花畑はこの世のものと思えぬ美しさ……それは絵本の中に咲く理想です。
きっと皆様の花も咲いている事でしょう。
ぜひ、お子さんと一緒に自分達の花がどこに咲いているか、探してみて下さいね。
作品情報
- 題 名 花さき山
- 作 者 斎藤隆介(文)・滝平二郎(絵)
- 出版社 岩崎書店
- 出版年 1969年
- 税込価格 1,430円
- ページ数 32ページ
- 我が家で主に読んでいた年齢 5~7歳(小学校入学後から、お話の読み込み度が上がった感じがします)