絵本むすび

実際に読み聞かせしたオススメ絵本・児童書の紹介ブログ

絵本むすび

絵本『おにたのぼうし』節分で追われる鬼の気持ち、知ってますか?

スポンサーリンク

スポンサーリンク

節分の日、多くの家では子供達によって「鬼は外!」と楽しい豆まきが行われます。

けれど、2月の寒空の下、居場所を追われた鬼はどこへ行けばよいのでしょう?

そもそも、鬼って本当にみんな悪いモノなの??

そんな疑問を忍ばせた『おにたのぼうし』は、黒鬼の子供おにたが主人公。

おにたはとっても心の優しい鬼なのに、世界はおにたに優しくありません……。

 

最近の絵本はハッピーエンドで終わる事が多いですが、50年以上前に出版されたこの絵本の後味はビター。

真心を誰にもわかってもらえぬおにたのいじらしさが胸に迫る名作です。

あまんきみこさんが紡ぐ切ない物語、いわさきちひろさんが描く心を震わせる絵の相乗効果で、おにたの物語の哀愁は増すばかり。

絵本を読んだ後、果たして、意気揚々と豆まきをする気持ちになれるでしょうか?

 

親子で共に考え、子供の情緒と共感する心を育むのにぴったりの1冊。

節分の季節に読むのをオススメします。

 

 

 

簡単なあらすじ

鬼は鬼でも、おにたは恥ずかしがり屋で優しい黒鬼の子供。

人の家にこっそり住み着いて、家の人達の為にひと働きする事もあるんです。

けれど、節分の日には、どこの家も柊を飾ったり、豆まきしたり……鬼のおにたは住んでいる家を追われてしまいます。

古い麦わら帽子で角を隠し、降り積もる雪の中を裸足で彷徨うおにた。

どこかに鬼が入れる家はないものかなあ……?

 

絵本の紹介

おにたと女の子、束の間の邂逅

家を追われたおにたは、柊も飾っていない、豆まきもしていない、トタン屋根の家を見つけます。

やったー、これなら鬼が余裕で忍び込めますね、ラッキー!

おにたが無事に新しい家を見つけられて良かった……と思いきや、そこにいたのは、病気のお母さんを看病し、心配させまいと独り空腹を堪える女の子。

 

女の子の暮らしぶりが苦しい事は、でこぼこの洗面器や薄い布団、食べるものが何もない台所などから見て取れます。

描かれる貧しさには、どことなく雪の匂いが漂うのは気のせいでしょうか。

高熱で苦しみながらも女の子を案じるお母さんへ、節分のご馳走を他所から分けてもらったから大丈夫、と嘘をつく女の子。

うう、健気……!

その横顔に満ちた憂いには、読み聞かせている私の方が、母として胸が絞られる思いですよ。

そして、女の子に心を寄り添わせ、居ても立っても居られない気持ちに駆られるおにたは、従来の「鬼」のイメージからはかけ離れている、と改めて感じますね。

 

その後、おにたはどうやってか方法は不明ながら、人間の男の子に姿を変え、ほかほかの赤ご飯と煮豆を女の子へと差し出します。

女の子の小さな嘘を本当にしてやろうとする、おにたの優しさにホロリ。

女の子は何も知りませんが、確かにその瞬間、おにたと女の子の間には優しい空気が流れていたはず……。

女の子の嬉しそうな微笑みに、おにたが報われたであろうと思うと、またまたホロリ。

いや~~、いい話ですね~~。

 

けれど、女の子の何気ないひと言に、場の空気は凍り付きます。

鬼のせいでお母さんの病気が悪くならないように豆まきがしたい、という、傍から見れば、母を想う優しい心と愛情の詰まった言葉。

でも、それを知らないとはいえ、同じ鬼のおにたに言うのは……!

人間は誰も女の子とお母さんの貧しい家に助けの手を伸べず、力になろうと唯一手を差し伸べたのは、君が追い払おうとしている鬼なんだよ~~~~っと、思わず心中で叫びたくなります。

深く悲しみ、やり切れぬ思いに身を震わせるおにたは忽然と姿を消し、後に残ったのは麦わら帽子、その中に入っていた黒い豆。

女の子は不思議に思いながらも、その黒い豆で念願の豆まきをします。

さっきの男の子は神様だったんだ、と思いながら……。

 

うう、なにこれ、切なすぎる……!

黒豆を残して姿を消したおにたの消息が語られる事はありません。

あの黒豆は何なのか、おにたはどこへ行ってしまったのか、生きているのか死んでいるのか。

全ては読んだ側の想像に任せられています。

 

おにたが消えてしまった理由

おにたは角を隠す為に、季節外れの古い麦わら帽子をかぶっているのですが、これは関わる存在を持たぬおにたの孤独と淋しさの象徴ではないかと思うんですよ。

どうして、鬼である象徴の角、自らのアイデンティティを隠さなければならないのか。

とうして、雪の降る冬に、おにたの手元には夏の麦わら帽子しかないのか。

これらの疑問を考えてみようとすれば、実際に会った事もないのに「鬼は悪いモノ」と決めつける価値観の世で、独りぼっちのおにたの姿が浮かび上がります。

おにたの優しさはいつも一方通行で、誰もおにたへ報いてはくれません。

自分が自分のままでは許されないって、とても淋しい事ですね。

 

おにたは、次のセリフを心に浮かべています。

 

(にんげんって おかしいな。おには わるいって、

きめているんだから。おににも、いろいろ あるのにな。

にんげんも、いろいろ いるみたいに。)

(引用元:ポプラ社 文・あまんきみこ 絵・いわさきちひろ『おにたのぼうし』1969年出版)

 

本当にその通り!

人も鬼も、たったひとつの枠にはめ込もうとするなんて、無理があります。

でも、おにたは心で思うだけ。

直接人間と接する事がないおにたは、漠然とした不満はあっても、心に留めてやり過ごせるものだったのでしょう。

多分、そのまま、物理的には人間の世界に住んでいても、心理的には接することなく、おにたはずーっと平穏な日常を送れていたでしょうね。

 

けれど、女の子の前へ、人に化けたおにたは姿を現し、直接会話を交わします。

それまでは、「こっそり」としか人と関わらなかったおにたが、もしかしたら、初めて直接言葉を交わした相手が女の子という訳ですね。

相手は、貧しさ・病・寒さ・空腹などに見舞われて、決して幸福とは断言できない状況。

ある意味では、おにたと同じ弱者の女の子。

しかし、その女の子ですら「鬼は悪いモノ」と見ているという事実を直接突き付けられ、もう心に留めてやり過ごせなくなったんじゃないでしょうか。

一度心が通じたと思っただけに、おにたの心を打ちのめしたのではないかな……、なんて私は想像します。

 

麦わら帽子と黒豆を残して姿を消す直前、おにたは今まで心の中だけで言っていたセリフ、口にしなかった言葉を残しています。

 

「おにだって、いろいろ あるのに。おにだって……」

(引用元:ポプラ社 文・あまんきみこ 絵・いわさきちひろ『おにたのぼうし』1969年出版)

 

視点の切り替わり

この絵本の大きな特徴に、視点の切り替わりがあります。

主人公は鬼の子供のおにた、作中の初めで語られるのもおにたの心情ですから、読む子供は当然おにたに感情移入しますよね?

しかし、話の途中で、おにたは読者である子供達の前から、2回姿を消します。

1回目は、人間に化けて(?)、女の子へ赤ご飯と煮豆を届ける時。

2回目は、女の子の言葉を聞いて、帽子と黒豆だけを残して消えた時。

この時、おにたが何をしたのか、おにたに何が起こったのか、説明は一切ありません。

おにたが姿を消せば、視点もおにたから女の子へと切り替わり、最後は結局おにたの視点に戻る事なく、話は結びを迎えます。

 

最初、おにたの立場を主観として感情移入していた子供からすれば、「一体どういうこと?おにたは??」と頭が疑問だらけになるかも?

主人公交代ともいえる視点の切り替わりは、他の絵本でも時折見られますが、ここまで完全に切り替えて、本来の主人公であるおにたの去就を明らかにしないというのは、珍しいタイプですね。

 

でも、これが、作者であるあまんきみこさんの凄いところ。

この視点の切り替わりによって、読んでいる子供は否応がなく、おにたと女の子、それぞれの立場を主観的・客観的に捉える流れになるんですよ。

モノの見方には多面性がある、黒と白だけでは分けられない世界がある、と感じるきっかけにもなります。

鬼を責める訳でもない、人を責める訳でもない。

どちらか一方の立場に偏らず、しかし、固定概念にはヒビを入れる。

もし、最初から最後まで、おにたの視点で描かれていたとしたら、ここまで強く心を打つ絵本になったかな……と考えると、うまいやり方ですね~~。

 

心に響く物語の名手、あまんきみこさん

あまんきみこさんは、40年以上の活動歴の中で、数多くの児童文学や絵本を世に送り出してきた童話作家です。

中には、小学校の国語教科書に掲載された作品もいくつかあり、戦争絵本の名作『ちいちゃんのかげおくり』は、私も小学校で学んだ記憶がありますよ。

 

 

あまんきみこさんの作風は、ゆったりとした美しい日本語使い、細やかな心理描写と情感溢れるストーリーが特徴的。

特に、日本人の心の琴線に触れる、切なく哀しい物語は、あまんきみこさんの十八番!

あまんきみこさんの作品を読むと、登場人物のいじらしさ、辿る運命への遣る瀬無さに、読んでいて思わず身悶えしそうになる事もしばしばです。

 

しかし、それは単なるお涙頂戴ストーリーによるものではないんですよね。

登場人物を単純な善悪に分ける事なく、それぞれの言い分を背景に滲ませた、奥行きのある人物像。

擬態語や擬音語のひとつひとつを丁寧に積み重ね、行間に余韻を滲ませる語り口。

物語の全てを言葉で説明しきるのではなく、敢えて語らずに想像の余地を大きく残す事で、読む者の心に引っ掛かりをいくつも残す手法。

小さな子供向けの易しい言葉使いであっても、どこか品が良いというか、文学の香りがする文章を書くのが、あまんきみこさん。

その文章は、強い言葉を使わずとも、人の感情を揺さぶり、問いかける力があります。

 

ですから、あまんきみこさんの作品は、「物語」への理解が進み、読解力を磨いていく年頃の子供にとって、自分で感じ取り考えていく為の絶好の機会を与えてくれる本なんですよ。

そのひとつがこの絵本、『おにたのぼうし』です。

 

ちなみに、巻末にはあまんきみこさんによる後書きがありまして、子供の頃に信じていたオニの思い出が綴ってあります。

これを読むと、子供の頃から、あまんきみこさんは、目の付け所、物語性のある空想力、ともいうべきものが優れていたのだな、と実感しますよ~~。

読み聞かせた後、大人の皆様はぜひご一読くださいね。

 

水彩画のカリスマ、いわさきちひろさん

いわさきちひろさんは、水彩画におけるカリスマとして名を馳せた絵本画家です。

とりわけ得意としていた題材は「子供」でして、まさに生涯を賭けたテーマ。

大人の皆様は、1度くらいはいわさきちひろさんの描く赤ちゃんや子供達の絵を目にした事があるかと思います。

 

没後50年近く経ちますが、いわさきちひろさんの絵の美しさは一切古びる事無く、清新な印象はそのまま。

絵の多くは、東京練馬区・長野県安曇野市の2カ所に開館されている「ちひろ美術館」に収蔵されていて、今でも精力的に展示会活動が行われているんですよ。

 

この『おにたのぼうし』では、その絵筆が思う存分振るわれておりまして、ま~~~、これが実に目の保養ですっ!

私は絵の素人ですので、技術的な事は詳しくないのですが、それでも、いわさきちひろさんの絵からは、いくつかの特徴をハッキリと見て取れますね。

 

  • 四季の移り変わりを連想させる、柔らかで澄み切った色使い。
  • 筆にたっぷりと水を含ませて色を乗せる「ぼかし」や「にじみ」の多用。
  • 背景、つまり紙の元々の色である白をわざと残して、周りにわずかな色を乗せていくだけで、人物や家などの存在を浮き立たせて見せる手法。
  • 余白を大きく生かした大胆な構図

 

人物を描く時、輪郭線をほとんど使用しないのも、特徴のひとつでしょう。

私達が見ている現実世界において、物理的な意味で「輪郭線」は存在しません。

浮世絵や漫画に至るまで使用されている輪郭線は実在しない……けれど、背景と物体の境界を線として捉え、二次元で表現する為に編み出した手法が、輪郭線です。

しかし、いわさきちひろさんは水彩画を描く時、特に人物を書く時には、輪郭線をほとんど使っていません。

髪や手指を描く時に輪郭線を入れたとしても、肌へ入れる事はほぼないんですよ。

輪郭線無しで白い紙へ直接乗せた色は、時にぼかされ、にじむ事で、そのまま色が空気に溶け、その空気が光へと溶け込んでいく……そんな錯覚を覚える柔らかな印象。

この輪郭線がない絵が、子供の肌の柔らかさに通じるだけでなく、未完成で不安定だからこその子供の魅力を表現しているんですね。

 

更に感心するのは、子供の一瞬を切り取るうまさ。

絵のタッチはリアルさとは遠い印象の水彩画なのに、子供の仕草、座り方、歩き方、視線の向け方……非常に細かい部分まで、描かれる子供自体の描写は徹底的にリアル。

恐ろしいほど冷静な観察眼で、未来へ向かって成長途中にいる子供、その生の一瞬を切り取ってあります。

『おにたのぼうし』の表紙を見れば、それは一目瞭然。

古い麦わら帽子をぎゅっとかぶるおにたの何気ない仕草、キラキラして澄んだ瞳……この見る者の心をハッと揺さぶる一瞬。

水彩画の技術の向こう側にある、おにた=子供のリアルな姿。

これを表紙に描いてみせたいわさきちひろさんは、本当に凄い画家だったのだな、とつくづく感服します。

 

 

我が家の読み聞かせ

余韻が残る最後のページで、我が家の息子達は揃って「おにたはどうしちゃったの?どこへ行ったの?」とよく質問してきます。

特に、読解力の伸びが顕著になってきた8歳長男(小学2年生)は、最近心に引っ掛かるものが増えてきたみたい。

でも、自分ではその引っ掛かりをうまく言葉で表現できない様子で、もどかしい顔をしていますよ。

 

語彙も知識も経験も少ない小学校低学年以下の年頃では、情報のインプットはできても、それを自分の言葉でアウトプットするのは、難しいんですよねー。

それが具体的な知識の説明ならまだしも、物語の解釈を他人へ伝えるとなると、高度な理解力・思考力・表現力が必要

それらを身につけるには、訓練となる読書感想文を書くのが手っ取り早いのですが、小学2年生では書いてもせいぜい数行の読書感想文もどきに留まっている状態……。

そりゃ~、感じた事全てをうまく言い表せず、モヤモヤするのも当然です。

 

けれど、心に引っ掛かりを感じるというのも、絵本を読む上では大切なコト。

自分が何に引っ掛かっているのかを考える事で、情緒も読解力も少しずつ養われていくんですものね。

逆に、な~~んにも引っ掛からずにサラサラ読めるというのは、逆に自分の頭でで考えるきっかけが得られないとも言える訳で……。

その意味では、絵本の中でも特に物語性の高く、視点の切り替わりがある『おにたのぼうし』は絶好の教材と言えるかもしれません。

この絵本、対象年齢3歳からとなっていますが、きちんと理解して解釈できるようになるのは小学校中学年くらいからではないか、と個人的には感じますね。

 

さて、長男が『おにたのぼうし』で感じた心の引っ掛かりを言葉にできる日は、いつ来るでしょうか。

その時は、ぜひ私に長男なりの解釈を教えてもらいたいのですけれど……恥ずかしがって「ひみつ!」って言われてしまうかな?

 

 

まとめ

『おにたのぼうし』はストーリーの性質上、読むとつい感傷的になってしまいがちですが、一方では、シビアな眼差しを持った絵本です。

日常生活に潜む固定観念を掘り起こし、弱者にスポットライトを当て、その弱者の中にも「本当の弱者」は往々にして存在しない現実を伝えてくるのは、今の絵本にはなかなか見ない厳しさですね。

しかし、厳しく辛い現実があるからこそ、おにたの心遣いのような優しく温かいものが心に響き、美しさに気付けます。

 

絵本の役割は、子供に清く明るく正しい世界を見せるだけではありません。

白と黒では割り切れない、むしろグレーの部分の方が多い世界もある、でも、そんな中でも美しいものはある……。

それに気付いた時、おにたはまた私達の前に姿を現してくれるのではないか……と、私はまた感傷的になってしまうのですが、皆様やお子さん達はどう思われるでしょうね?

 

 

作品情報

  • 題 名  おにたのぼうし
  • 作 者  あまんきみこ(文)・いわさきちひろ(絵)
  • 出版社  ポプラ社
  • 出版年  1969年
  • 税込価格 1,100円
  • ページ数 32ページ
  • 対象年齢 3歳から
  • 我が家で主に読んでいた年齢 4~6歳(じっくり読むなら、小学生低学年から)